8月7日の介護給付費分科会では、全国老人福祉施設協議会から会長名で「令和6(2024)年度介護報酬改定に向けた要望」が出されました。急激な物価高等による経営悪化や人材確保困難を背景に、極めて強い危機感を訴えたうえで求めているのが、介護報酬の「賃金・物価スライド」の導入検討です。
現状では、これまでのやり方には限界が⁉
現行の介護報酬は、介護サービスの種類ごとにサービス内容や利用者の要介護度、事業所・施設の所在地等に応じた平均的な費用(設備の償還費用や管理経費、人件費等)を勘案して決定することとされています。
社会全体の物価や賃金が上昇すれば、事業所・施設としても経費や人件費を上げざるを得ません。その状況がリアルタイムの実態にそくして介護報酬に反映されるなら、今回の老施協のような要望は出てこないでしょう。
問題は、かかった費用や人件費について、(介護事業経営実態・概況調査などによる)過去の決算状況などをもとに把握したうえで、「平均」として算出している点です。直近の急激な物価や産業全体の人件費の急騰を、リアルタイムかつ現場の実態に即して反映させていくうえではどうしても限界が生じます。
そこで、過去に実際にかかった費用ではなく、直近で進行する物価・賃金上昇を加味した新しい報酬算定のしくみを求める──これが物価・賃金スライドというわけです。
「物価・賃金スライド」を導入する際の課題
詳細なしくみはともかく、この「考え方」が介護報酬改定に導入されるとすれば、これは大きな動きとなります。なぜなら、物価・賃金という社会状況をストレートに反映させることにより、報酬の大幅な引き上げを引き出すための「自動装置」となるからです。
ちなみに、昨今の国会で野党が「介護・障害福祉従事者の人材確保に関する特別措置法案」を提出しています。法案内では介護報酬のあり方にも言及していて、「サービスの安定的な継続」ならびに「従事者の賃金の改善等による、将来にわたる職業生活の安定、離職の防止に資する」ような配慮を求めています。
報酬改定に、法律上で一定の縛りを設けるという観点は同じですが、「物価・賃金スライドの導入」の方がより具体的かつ明確な縛りと言えるでしょう。それだけ今回の老施協の要望は極めてインパクトは強いといえます。
とはいえ、現役世代まで含めた被保険者の保険料負担が急速に上昇する可能性もあるわけですから、仮に「物価・賃金スライド」を導入するとしても、「引上げ」の基準や、物価・賃金スライドを発動させるタイミングなどのルールが定められる可能性は高いでしょう。
公的年金のマクロ経済スライドを参照すると
たとえば、物価・賃金の変動について、どの指標(例.物価であれば消費者物価指数など)をもとにするのか。その上昇の値がどこまで行ったら、スライド発動するのか。そして、上昇率が著しい場合、どこかで抑制策を設けるのかどうかなどが論点となります。
ここで思い起こされるのが、公的年金における「マクロ経済スライド」です。公的年金も、その時々の物価・賃金が上昇すれば引き上げられます。一方で、保険料を負担する現役世代の減少や平均余命の伸びも考慮され、その調整のために「スライド調整率」が設定されます。その「スライド調整率」を差し引くことにより、実際の改定率は、物価・賃金の上昇率より低くなります。
ちなみに、この「スライド調整率」は、物価・賃金の伸びが低い場合は抑えられ、「物価・賃金が上昇したのに年金の支給額が下がる」という状況を回避します。しかし、物価・賃金の上昇を完全に反映しているわけではありませんから、受給者にしてみれば、その時々の物価・賃金と比較した場合、実質的な支給額は減少していることになります。
仮に「物価・賃金スライド」の導入で「スライド調整率」のようなしくみがセット化されてしまえば、その効果はなし崩しとなる可能性は高いでしょう。このあたりは、今後の議論の展開で注意したい点です。
「これまでにない介護危機」を共有できるか
「物価と賃金の上昇に伴って、介護人材の他業界への移行が急伸し、地域によって介護資源が立ち行かなくなる」という状況は、すでに始まっていると見た方がいいでしょう。これが現実化すれば、「必要なサービスが足りないのに、高い保険料を払う必要があるのか」と考える被保険者も急増するはずです。
まさに介護保険制度最大の危機と言っていい状況です。それを見すえたとき、今必要なことは「介護緊急事態」を政府自らが認め、そのことを国民にきちんと説明することではないでしょうか。そのうえで、一時的に「物価・賃金スライド」を調整なしで発動し、特別措置法などにより臨時的に公費導入の割合増を検討することも必要でしょう。
非現実的と思う人も多いでしょうが、制度そのものが現実と乖離しつつある中で、今がこれまでにない危機であるという認識を共有するべきタイミングかもしれません。
間もなく業界・職能団体等のヒアリングが始まりますが、今回の「物価・賃金スライド」のような思い切った提案を重ねていく中で、大きなうねりを起こすことができるかどうかが今こそ問われているといえます。
◆著者プロフィール 田中 元(たなか はじめ)
昭和37 年群馬県出身。介護福祉ジャーナリスト。
立教大学法学部卒業後、出版社勤務。雑誌・書籍の編集業務を経てフリーに。高齢者の自立・ 介護等をテーマとした取材・執筆・編集活動をおこなっている。著書に『介護事故完全防止マニュアル』 (ぱる出版)、『ホームヘルパーの資格の取り方2級』 (ぱる出版)、『熟年世代からの元気になる「食生活」の本』 (監修/成田和子、旭屋出版) など。おもに介護保険改正、介護報酬改定などの複雑な制度をわかりやすく噛み砕いた解説記事を提供中。